
私たちも知りませんでした。その結果を知らされたのは、「聞こえないのでは」と、疑問を抱いて病院へ行った日から六ヵ月後のことでした。
病院を回され、三ヵ所目の病院でした。脳波測定により、「当病院の測定の限界を越える高度難聴」とのことでした。
結果として、ろう学校への紹介状が渡されました。言われたことは一言「治すことを考えても治らないので、今後どのように生きていくかを考えてください」だった。
リハビリを続けるとどうなるのか、耳鼻科の先生でも知らなかったのだと思う。その後、東京で幼児の訓練施設があることを知り、通うことになりました。
帝京大学医学部、耳鼻科の田中教室や、リオン親と子の教室に通いました。聴能訓練、発音訓練と回を重ねるに従って、全体が見えてくるようになりました。[いまやるしかない」「後悔しないようなことをやりたい」。そのことだけでした。二番目の娘の聴覚障害と知ったときは、覚悟は決まっていました。二人の娘を連れての東京通いになりました。毎週の東京通いを、最優先の仕事として訓練に通いました。毎日が忙しく過ぎて行きました。
二人の子供にとっても辛い時期だったと思いますが、いまそのころの先生や、お友だちの名前、写真を見せても余り記憶がないと言います。
子供たちが通ってきた道が、どのようなものだったのか、当時の子供の日記や絵、工作物などが、思い出させてくれます。
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